令和5年度「天商梅友会」は、10月15日、天王寺区上本町近鉄百貨店「京懐石 美濃吉」に於いて開くことが出来ました。
思えば17歳の折、南区の高津神社の近く、戦災で焼け野原になった跡地にポツンと焼け
残った金鴎小学校の旧教室で、初めて仲間になって七十余年。耳や眼が遠くなった代りに欲望や煩悩の数が少なくなった同士の会話は面白く、どこか虚しくとも、実に楽しい。
病室から車椅子で参加してくれたり、愛媛奥から飛行機と電車を乗り継ぎ間に合わせてく
れたりして、13名の仲間が集まりました。こんな楽しい会は今年も開かずには収まりますまい。
(当日の出席者は、今野、井上、嘉久、福岡、小栗、傳馬、吉川、藤原、福田、杉本、上田、中江、池永の各氏でした。)
(杉本 吉徳 記)
前年度の会報第70号の「各期だより」を見て我々高6回梅友会の投稿がなく、これでは梅友会消滅の感を抱かれるのではないかとの思いにより、急遽、昨年11月20日に上六の近鉄百貨店上階の京料理店「美濃吉」にて梅友会を開催しました。
12名の出席があって落ち着いた雰囲気の中、コロナ禍で日頃会話の機会が減っていたこともあってか会話もはずみました。
その中でゴルフに行こうかという話も出て元気なところも見せました。
本年も「美濃吉」での梅友会開催を決定していますので、今回参加が叶わなかった方も参加をよろしくお願いしておきます。
(新担当 小栗 邦夫 記)
記念写真
【後列】
天満 宏・石井 桂輔・小島 成夫・今野 佐千夫・間瀬 俊・中江 司郎・小栗 邦夫
【前列】
上田 康吉・嘉久 尚子・井上 隆晴・福田 昌功・喜澤 孝一
出席予定なるも急病のため欠席 杉本 吉徳
第36回 天商梅友会総会
今年になって、普段通りの生活を運べたのは正月の月だけだったような気がする。2月になると、もう中国の武漢で新コロナ・ウィルスによる感染症が流行り出したと、その猛威が伝えられた。対岸の火事と気にもしていなかったのが、外国の大型クルーズ船が感染者を乗せて横浜に寄港した、ということから話が他人事ではなくなった。感染拡散予防のために、今年開催予定の東京オリンピックも延期になった。それだけではなく、楽しみのプロ野球も高校野球大会も、いいや天神祭の船渡御も、祇園祭の山鉾巡行も中止になり、何もかもコロナ対策大事と、街には人がいなくなり、世の中の動きが止まってしまった。学校は休校になり、卒業式や入学式が中止になった処も多くなって、当事者たちは人生のアルバムから青春の1ページが千切られた。
私達のように長い人生を過ごしてくると、想像もつかない出来事に、いろいろ遭遇するものだ。この国は、昭和16年12月8日世界を相手に戦争を始めた。4年間の惨めな戦いで、何の勝算もない中、「一億一心」「打ちてし止まん」と声高に叫ばせられ、コテンパンに叩きのめされた。日本社会は困窮と貧困のどん底に突き落とされ、国民は全員乞食になった。戦が終わっても貧困の世の中は簡単には終わらず後を引いた。私達は小学・中学・高校と貧困の世の中を生かされた。戦後も5~6年経つのに労使が争い、私鉄のゼネラル・ストライキが度々行われた。電車が全日(または半日)全線でストップしてしまうのだ。私鉄で通勤・通学している者はその足をもぎ取られる。
学校は休校ではない、私鉄利用者以外は通常のままだ。私は私鉄通学者だった。
我が家の近くに、小野田セメントの専属運送会社があって、毎朝、大正区の木津川べりへ荷揚げのために配車していた。ストライキ当日は、そのトラックの荷台に便乗させてもらって、下寺町あたりで降ろして貰った。行きは良かったが帰りが怖い、帰宅する方法がない、途方に暮れる、救いの神がいた。同級生のF君だ、自家用のオート三輪を持出してきて送ってくれるという。その後もストライキは度々あった。その度に彼のお世話になった。そのF君と卒業後別れ別れになった。何年か後、彼は稼業の関係で四国愛媛の方に帰っていった。後は年賀状だけの付き合いになってしまった。四国に旅したついでに、彼の家を訪れてみようかと思ったこともあった。彼の会社のある内子町は松山からも、そんな簡単についでにひょいと往ける処ではなかった。この世では、このまま会えずに終わるのか、と思っていたところに、彼から今回の「梅友会」に出席すると便りが来た。11月16日、彼は開宴の5分前息せき切って現れた。再会の第一声は「昨夜はどうした、どこに泊まったの?」だった。早朝6時、11月の朝はまだ暗い、その中を四国の家から電車を乗り継いで来たと言う。そしてまた、今日のうちに帰るという。感激した。
今年も出席すると言うていたが、今年は開催できるのだろうか?残り少ない我等の人生の尻尾をもぎとらないで。
(杉本 吉徳 記)
第35回目になる「天商梅友会」を地下鉄難波駅に直結したホテルで昨年11月16日(金)に開いた。難波の地は私たち戦後の金鴎小学校舎卒の者たちには故郷の如き親しみのある地なのだ。御堂筋に秋の気配が迫っていて、銀杏並木もそろそろ色付き始めていた。この木々もイルミネーションに飾りつけられて、師走の賑わいに埋もれるのだろう。高島屋の筋向いの角に正起屋(居酒屋)があり、その北隣にジッポーのライターを並べていた煙草屋があった。そこの表の壁が崩れ落ち、戦後の焼け跡や震災後の繁華街の一角のような様相を見せており、余計にあの当時の風景を思い出させる。
私たちの会の出席者は、もう何時もの元気者に落ち着いた。欠席者からは毎年現況を送ってもらっている。此の方も顔ぶれは変わらなくなった。いずれももう病気自慢の話をする者はいなくなった。
私は先日、ある会でホールを借りて催しを行ったことがあった。後片付けをしている時ホールの責任者が私に声をかけてきた。「Sさん、来年もよろしくお願いします」と、「私は来年まで生きているやら、どないや分からんで」と返事を返すと、「死ぬ前に電話下さいね」と笑顔をかけて行った。
死ぬ前に親しい者たちに電話をかけることができたらなあ、きっと長電話になるだろうな。「おお、もう行くのんか、長い付き合いやったな、お互い様やけど色々世話掛けたな、----、よう聞こえんがな、しかしあの時はおもろかったなあ、アッハハハア--」と別れを惜しむなんて夢物語りにしても楽しくも、また寂しいね。
もう同級仲間で電話する相手もずい分と減ってしまった。後4・5年すれば米寿だぜ、どうや、いけそうか?記念の会をやろか。
(杉本 吉徳 記)
大根の掃除機
平成30年2月24日(土)、難波の「ホテル一栄」にて第44回の総会を開いた。場所を此処に選んだのには理由がある、足場が良いことだ。歳をとると足腰の弱さを競えないほど普通になる。今年も23名の出席者があった。出席者の数は去年と同じだが、多少顔ぶれが替わった。脳梗塞の後遺症でここ何年か休んでいた益さんが出てきてくれた、懐かしい。殆んど初参加のN君、久方ぶりのゴンリ、皆勤だが難病で苦しんでいる長明君、今年はヘルパーに付き添われての参加となったが、顔を見せてくれた姿には感動する。東京からもコロ助が参加してくれた。
自動車が趣味で、めっぽうメカに強い今野君、水害で水に浸かって廃車になったBMWの2シーターオープンカーを廃棄物屋から購入して、それを新車かと見間違う程に再生させて私の家まで乗りつける男だ。当日その彼が私に「大根の掃除機いらんか」と言ってきた。どうやら回収業者から古物を見つけ出し面白半分で再生したらしい。修理のための部品がないために、次々と古物を買い上げては部品を外し、使い回している間に何台か再生品が出来たとか、「大根の掃除機なんかいらんわい、おれとこ農家やないで」「1台あったら便利やで、近所の奥さんにあげたらえらい喜んだはったで」「その人の家、そんなに大きな農家なんか」「違うよ、普通の家庭や」「普通の家庭で一年に何本大根を洗いはるねん、訳が分からんわ」そんな会話を横で聞いていた会長が「ダイソンの掃除機の話やで」と、耳打ちしてくれた。「なんや、はっきり言えよ」「はっきり聞けよ」年寄りの話が何時までも続いた。
(杉本 吉徳 記)
野々村君逝く
思い出すのもつらいことだが、天商ゴルフ同好会や、私ども梅友会の事務局を長年にわたり務めてくれていた野々村定之君が昨年9月15日に永眠した。
仲間内で一番元気だったように思っていた。過去に大病もなく、細かい仕事も難なくこなしてくれた。皆がそう思っていただろう。「梅友会の最期を看取るのは彼だ」と。しかし、あまり元気なのも気を付けなくてはいけないようだ。高齢者は自粛するだろう猛暑の中で、彼はゴルフ・コンペに参加していた。そしてそのティ・グランドでうずくまった。天理市の病院に運ばれたが、脳内出血で、その夜、奥様や弟さん、ご子息に見守られながら、十五夜の月に曳き寄せられてこの世を去っていった。
梅友会も頓挫した。筆者も、「これで梅友会も店じまいか」と思った。毎年秋に催している総会も手付かず、そのままにしていた。会長の井上隆晴君から、「今年の梅友会は、どうするのか」と、ハガキを頂いた。「無理でしょう」と答えていた。「やろうよ、続けようよ、事務局は私の事務所で引き受けるよ」と力強い言葉をもらった。私には随分強い励ましの言葉だった。天商同窓会の学年委員を島田隆夫君にお願いした。始めは強く拒絶していた彼だが、誰彼じゃない、「人生、受け持ちが決まっている」と理解して最後は快く引き受けてくれた。そして、今年2月25日(土)難波駅前のホテル一栄で総会を開いた。
新生梅友会には22名が集まった。東京からも、名古屋からも来てくれた。喜びも悲しみも幾星霜、ここまで生きてきた今日の日に乾杯だ。喜びを旧友と語り合う、その楽しさは格別のものだ。校歌を思い切り歌った。
(杉本 吉徳 記)
昨年10月24日~25日と梅友会有志は80歳の傘寿のお礼に、伊勢神宮の外宮・内宮を参拝し、伊勢の人気旅館「斎王の宮」に宿泊した。同窓会といえば幾つになっても遠い昔のあの甘い夢を見る。思い返せば随分といろいろな時代を生きてきた。椅子もない板張りの電車で通学した時代もあった。いま皮張りのシートを備えた近鉄特急「しまかぜ」が我々を乗せて、静かに速く大和路をわたり伊勢路を走る。神の前に頭を垂れ、目を閉じれば巫女の舞う涼やかな鈴の音が身を祓う。この幸せがあと幾歳続いてもいい。どうぞ同級のみんなが幸せであるように再び祈る。(移本 吉徳 記)
平成27年4月より、梅友会々員は順次満80歳、傘寿の祝歳に入る。
古来希といわれた古希(70歳)など一昔前のこと、80歳の同窓会とはあまり聞き慣れてこなかった気がする。完成まで「命がもつやろか」と気懸りにしていた、あのあべのハルカスも出来上がり、とても席を取るのが難しい大阪マリオットホテルの最上階(57階)レストランZKで、昨年12月13日(土)の午後、念願の梅友会の総会を開催する事が出来た。出席者は30名、皆元気だった。
大阪府内一円端から端まで見降ろして一同ご満悦。事情で出席できなかった方、お先にと逝ってしまった方々に、ああ生きていて好かったよ、元気でよかったよ、と報告するのか。
今年の総会は、近鉄特急で伊勢神宮へ「おかげ参り」に一泊旅行等はどうかな、と意見も出ている。
「歳月人を待たず」宇宙の動きは一刻も休みなく前に進む、すべてのものは刻一刻と壊れて少しずつ消滅してゆく。(杉本 吉徳 記)
あべのハルカスが今年3月開業した。その着工が発表され、竣工日が伝えられたとき、へぇーすごいものが出来るんやなー、生きてるうちには間に合わんやろなぁ・・・。まだ生きてた。それも割合ぴんぴんと、長生きは楽しい。
「あかず惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢の心地こそせめ」醜い心がのぞむ、健康で居ることができるのなら、東京オリンピックも見たいと。去年の11月末、南久宝寺町の料理屋で30回目になる「天商梅友会」の総会を開いた。現役時代のみんなが華やかに活躍していた場所にも近く、それぞれが思いでのある土地柄らしい。出席してくれた級友達は皆元気だった。なかに最近の日曜朝のNHKの番組「ルソンの壷」に出演したという某会社の会長さんがいて、撮影裏話などを語って場を楽しませてくれた。今年の総会は「あべのハルカスダイニング」とか、梅北の「グラン・フロント・オオサカ」のどこか本物の料理を食べさせてくれる店で開きたいと願う。少しでも多くの先進を見ておきたい。まだまだ!!これからも天商同窓会とともにしぶとういこう。
(杉本 吉徳 記)
平成24年も残り少ない12月1日、寒空も好天の信貴山朝護孫子寺(奈良県三郷町)に旧友達が集まった。僧侶の読み上げる読経の中に会員それぞれの名前が混じる、強烈な太鼓の音が山内に響き、梅友会の会員が手を合わせ「国家の安泰と長寿への感謝」を念じ、さわやかに「喜寿」をクリヤした。会長(井上隆晴君)がつぶやいた。「過去の塵を流し、また新しく生きて行ける気がする」と。市内からみると辺鄙な場所で行われた今回の梅友会の総会だったが、出席者の多少についての心配をよそに予想以上の友が集まってくれた。それも市内で催すときと違った顔ぶれと女性会員の数が多く、世話役を喜ばせた。山門「寅茶屋」の明るく眺望の開けた座敷で、朗らかな仲居さんのサービスを受けて、和やかに29回目の総会も「東西万里往かんかな」の合唱で、お開きになったが、笑いは帰路のケーブルカーの中まで続いた。事務局(野々村定之君)の調べによると、卒業者366名に対し案内状を送れたのは192通、返信(出欠の有無・近況連絡)の有ったのが123通、そのうち出席出来たのが24名だった。うち6名もの女性があったことは特筆に値すると思い、今後も、年ごとに出席できる人数が少なくなる中、女性方の参加が多くなることを願いたい。年が改まり2月21日、永年天商同窓会の理事を務めてくれた小出寶一君が亡くなったとの報に接した。天商同窓会の元副会長井上隆晴君によれば、小出君は理事や常任理事として天商同窓会の活動に熱心に取り組んでくれていて、理事会や常任理事会において同窓会活性化のためユニークな意見を述べてくれていた。また毎年の総会には必ず出席してくれており、特筆すべきは、「天商80年史」の発刊に当たって、編集委員として大きな貢献をしてくれた、とのことであり、天商同窓会として、小出君を失ったことは惜しまれるところである。5月9日、梅友会の設立以来その運営に多大な功績を残し、高6回の情報収集、発信元にもなってくれていた札本守男君も帰らぬ人となった。残念なことだが人間ならいずれこの日は訪れる。この地球から消える日が来る。天国だとか地獄かとは無い。生まれかわってくることもない。生きていることを感謝し、生きていることを大いに楽しみたい。すぐに「傘寿」が待っている。
(杉本 吉徳 記)
昨年の11月19日、土曜の昼下がり、その日は朝からの雨だった。飛沫が御堂筋を跳ねる、それでも店を借り切るほどの多くの仲間が集まった。雨の風情が気分を落ち着かせるのか酒が美味い。この歳になるともう病報告もしなくなった、欲呆けた話も、子や孫の自慢話も、もう誰もしなくなった。穏やかな笑顔で会話は進む、徳利の数が声を大きくする、和やかな笑顔はそのまま、まるで仙人と菩薩の宴だと思った。「円熟」とはこのようなものか、見ていて嬉しくなる、いとしくなる、「長生きしような」と肩を抱いて回りたい気持ちになる。振り向けば、様々な時代を、様々な場面を生きてきた。自分ひとりで生きてきたのではない、その時代のその場面で、多くの人と係わり、たすけられて生きてきた。誰がどうのとかこうのとか云う年齢でもなくなった。
露の世の露の世なれど さりながら(一茶)
今年は全員が喜寿を迎えた。お互いの長寿を祝っての梅友会を開くことにする。日時は24年12月1日(土)に決めた。大和・河内の国境、信貴山朝護孫寺に参拝し、国家の安泰を願い・長寿に感謝の祈を奉げ、その後、山内を巡り、参道の茶屋で旨い料理を喰いながら、カラオケでも怒鳴って精進を落とし、今日、生きていることを楽しもうと思う。
(代表幹事 杉本 吉徳 記)
『峠』という詩のなかに、すぎ来しみちはなつかしく ひらけくるみちはたのしいという一節がある。もうまもなく私たちは喜寿をむかえる、すぎ来しみちはなつかしい、何事も楽しかった思いに繋がる、随分と遠ーい道のりだったが、友と語り合えば、随分と短い、私たちがゆく道は、もうそんなに長くはない。昔の人に比べれば随分と平均寿命が延びたというものの、残っている同級生は三分の一ほどだと思う。そのすべてが健常だと言いきれない、でも梅友会は何事もなく続いている。今年も総会は11月19日(土)心斎橋の で催す予定だし、ウォーキングの会も歩数は少なくなったが猛暑月以外は毎月続けている。ゴルフの会も元気だ。春秋2回のコンペは今もって盛会だ。有志の旅行会も賑やかに回を重ねている。今年も阿蘇と を旅した、古城開城址の城壁に感動もし、ラムネ湯という秘湯にも入ってきた。友がぽつりと言う「生きていると いろんなものに出会えるな」と。東日本大震災の無残なTV画面で、一人ぼっちになった少女がつぶやいていた、「昨日までは 私は幸せだったんですね」と。友がいて、たまには僅かな酒を酌み交わし日常の詰まらない会話を交わせる私たちは幸せだね。
(杉本 吉徳 記)
好きな言葉ではないが、好むと好まざるに拘らず「後期高齢者」の仲間入りを控え、気分未だ「青年」の一同は、昨年11月9日会場を10年ぶりに日本料理「大観」(心斎橋ハートンホテル)に戻し28名が参加、回春のひと時を過ごした。顔触れが半ば固定された様な面々が、それでも歓談に嵌り込むなか、久々の珍しい顔に出会える喜びは「Viva!!同窓会」と叫びたくなる気分になる。参加者は年々減少して行くのが自然の摂理とは言え、これを防ぐ手立てとして「唯吾足知」の心境で、諸事からの脱却を目指すも、中々成らぬが人生と、せめて「瞬時の慰め」になればと、飽きもせず集う会合です。
一方、ゴルフのコンペも数えて61回。
春5月22日「名阪チサン」15名 WINNER 山本益久君
秋11月6日「JapanMemorial」18名 WINNER 宮田 要君
と意気盛ん。目標100回を達成せんと精励中。
「総会」共々、老身に鞭撻盛んなり。
(野々村 定之 記)
H21
平成20年度の梅友会総会は11月29日、梅田のホテルグランピアで催した。出席者は30人ほどであったが、それよりも事務局を務めてくれている野々村定之君の作業データーを見て驚いた、この時点で物故者・消息不明者が167名にもなっていた、いよいよの寂しさを感ぜずにはいられない。とは言うものの春秋のゴルフ会や、月例の散歩会には「老人かいな」と疑いたくなる元気な連中が集まってくる。総会の時のコメント集にこんな記入があった、「我々は今の天商の場所、校舎を知らない。機会があれば一度訪れてみたい」と。一度も訪れたことのない母校、それも3年後には校舎も校名も消え去ってしまうそうな、誇りだった梅鉢の紋章が無くなるのはどうも寂しい。最後に創学100年の記念式典が行われるようだ。私達の在学中に創立40周年の記念式典が催された事があった。あのときの紅顔の美少年達も、いまや白顔の好々爺になっているのは不思議なことかな。青春真っ只中、泣き、笑い転げたその跡には、何も残っていない、なにも、ただ校庭代わりにしていた中央区瓦屋町公園だけが、知らん顔して・・・そこにある。改めて連絡するが今年も総会を11月に行う、それと今後ゴルフ会は、小栗・島田・山本の三君がお世話してくれる様になった事を知らしておく。
(杉本 吉徳 記)
H20
平成19年度の梅友会総会は、予定通り11月21日午後6時から、梅田のホテルグランヴィア大阪で開会した。参加者は、嬉しいことに昨年の26名より大幅に増えて、36名になった。
一年の半分は外国で暮らしているというK君が、卒業後初めての出席ということでスピーチした。「・・72年の人生から、52年分の出来事がどこかに吹き飛んでしまった、・・あの日(卒業式)の次が、今日のような・・」と。
出欠の返信コメントの中に「病気療養中で出席したくても・・」「三年間入院しています、透析もしています、毎日苦しいです」という、他に似た便りがある。
君だけじゃないんだよ、彼もだよ、誰々もだよ、・・がんばらなくてもいいから少しでも長生きしてよ、寂しいから 「梅友会のゴルフ大会で優勝し意気揚々と出席したいものだ・・」多分こいつは、早死にするぜ。
今年の総会(20年度)は、昨年の盛会にあやかって、場所も同じ梅田の「ホテルグランヴィア大阪」で、11月29日(土)18:00開宴で設定した。遷り行く梅田北ヤードの夜景を見下ろすルームを確保したことで料理の趣向も変えてみたい、残り少ない人生、青春の思いで今一度と、昨年に倍し参加されんことを。
(杉本 吉徳 記)
H19
高津神社近くの、金甌小学校(現中央小学校)仮校舎で卒業してから、数えれば53年にもなる。あの時、一緒に卒業した仲間は366人であったが、いま所在の確認できるのが231人でしかない。平成18年度の総会を開くに当たり案内状を送ったが、出席の有無を知らせる返信は151通だった。
総会は平成18年10月15日 難波のスイスホテル南海「エンプレスルーム」で開催した。
出席したのは28人。欠席理由の多くは、自治会や神社の祭礼などと、地元行事や活動への参加のため。そして、多いのが入院療養を含めての体調不良。いずれも年輪を感じさせるものであった。19年度の11月の下旬頃に設営してみるつもりでいる。
「友人、笑顔、美食、いいねぇ」とコメントして出席してくれた友もいた。何とか元気でいるあいだは、こうでありたいなぁ。
去年、遠方から来て元気に語っていた彼の訃報を同じこの場所で聴くのも淋しいかぎりだし、こんな場面がこれからももっと増えるのだろうと思うと、自分だけはその当事者にならないと決めつけているかのように、他人事ながらの悲しさをおぼえる。
誰にも無事に次の朝を迎えられる保証はない。―無常の来ることは水火の攻むるよりも速やか―と兼好法師も記している。 (杉本吉徳 記)
H18
今回で22回を数える、「天商梅友会」の平成17年度総会を秋酎の10月9日(日)午後5時から、北区東急ホテル「日本料理なだ萬で催しました。
案内状返信131通のうち38名が出席し、野々村定之事務局の司会のもとに、井上隆晴会長挨拶、名古屋の花王滋明君の乾杯音頭で宴会が始まり、名古屋の優雅な料理に酔い、笑いが渦巻く和やかな雰囲気で始終し、東京から出席の前田佳稔夫君の挨拶で締めくくりました。会場では、杉本吉德著・田中成和(田中手帳株)印刷・製本・発行の上製本「伝えておきたい和食春秋徒然レシビ」が、娘さん方へのおみやげにと全員に配られもしました。一方、ゴルフ部会での結果は、春季(5月24日・名阪チサン)優勝は喜久尚子さん、秋季(10月7日・名阪チサン)は上田康吉君の優勝でした。なお「徒然レシピ」のご必要な方は、会員に拘らず野々村事務局までお申し越し下さい。
(杉本 吉德 記)
H17
平成16年度『天商梅友会』総会は10月10日、会場に浪花の名勝網島の地に「太閤園」を選び開催しました。藤田男爵の旧邸で美しい庭園は昔日の面影を残し、有名なコレクションも藤田美術館に収納されていて、宴会を始める前の少しの時間、美術品の閲覧と優雅な日本庭園の散策を楽しみました。集いましたのは35名(案内書発信総数251通、内返信総数133 回答率53%)で当日は東京在住の会員を代表して林良三君が出席、東京天商同窓会長として活躍している村山和彦君ほか、在京各位の近況を雄弁に報告してくれました。今回をもって長年「梅友会」の為に尽力してくました札本君が代表幹事を退くことになり、今迄の尽力、功績を一々思い出し感謝いたしております。新しく天商梅友会会長には井上隆晴君(前天商同窓会副会長)を選出し、下は従来通り代表幹事に杉本吉徳、事務局に野々村定之が従事いたします。なおゴルフ会も今回で50回を数え益々盛会、春季(於池田CC)優勝傅馬武明君、秋季(於名阪チサン)優勝は藤原宗一郎君でした。
(杉本 記)
H16
'54年卒業後、'74年に第1回「梅友会ゴルフ」を「奈良国際GC」にて、参加者13名で行い、藤原君が初代優勝者の榮に輝いて以来30年の歳月が流れ、多忙を極める各位に代り「継続は力なり」と、札本君の地道な努力のお蔭で、今回第50回と記念の大会を迎えることが出来ました。当初は「一泊ゴルフ」でと計画していましたが、多数の参加を目的によう、とのことで、6月8日地元「池田CC」で行いました。当日は生憎の雨でしたが、記念大会とあって9年振りの小出君、名古屋から初発の新幹線で駆け付けた花王君等、参加者は26名にもなり、優勝は6年振りに登場の傳馬君と珍しいこと続出のなかで、体調をものともせずベスグロ84の松村君には賞賛の声頻りでした。さてこれから何回開催できるか?毎年春秋2回の開催で取敢えず10年、70回記念は丁度数えで80歳になり「傘寿記念大会」を盛大に行いたいものです。
(福田昌功記)
平成14年11月10日
総会 平成14年11月10日(日)
場所 天王寺茶臼山「坂口楼」
参加人数 39名
古より稀なる年齢に近付き、暴飲暴食を慎まねばとの心配りから「食」の健康を目指し「普茶料理」を賞味しようと計画した総会は、杉本代表幹事の解説付き。風雅と言えば風雅、若年寄を気取っての集いになりました。場所柄か普段と違って若き頃のヤンチャ話は座敷の随処に大輪の華が咲き、座を締めるタイミングを計るのに幹事がヤキモキするのはいつものこと。同窓会の良さを改めて感じ入った一と時を過ごし散会した。
ゴルフ
〔第47回〕平成14年11月7日(木)
場所 ジャパン・クラッシックCC
参加人数 18名
優勝 島田隆夫君
〔第48回〕平成15年5月27日(火)
場所 名阪チサンCC
参加人数 24名
優勝 坪田悦治君
48回優勝の坪田君は、この1月心臓発作に襲われ「ドクター・ヘリ」に一命を救われた顛末を「優勝の弁」で述べ、グロス78の成績そっちのけで、参加者の傾聴を集めた名?スピーチが印象的。
野々村定之記
平成13年8月23日
総 会 平成13年8月23日(木)
場 所 「大川」周回“クルーズ”
チャーター船上
参加人数 40名
前年度から始まった「趣向を凝らして」を引き継いで、本年度も水辺にと「舟遊び」を計画しました。豪華クルーズ船をチャーターし、帝国ホテルの最高の料理を積み込んで、「名残の夏の夕涼み」と洒落てみました。
ライトアップされた河畔の木立も昼間とは一味違って涼やか。更に圧巻は夜陰に浮かぶ「天守閣」をデッキから楽しむ等、所定の時間も正に束の間、しばし浮世のうさも忘れ、同窓の誼を温めることが出来ました。
(第45回)平成13年11月13日(火)
場 所 I.G.A C. C
参加人数 20名 優勝 種谷利夫君
(第46回)平成14年4月23日(火)
場 所 ジャパン・クラシック C. C
参加人数 20名 優勝 坪田悦治君
なお、本年6月4日催行の第16回「同窓会同好会コンペ」には11名が参加し、一般の部では上田康吉君が、レディスの部では嘉久尚子君が、各々優勝の栄に浴した。
(野々村 定之 記)